スペイン政府公認 在スペイン日本人通訳協会
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ベルリンの東西分割の最も象徴的な門、ブランデンブルグの門
ソニー広場 1989年にベルリンの壁が崩壊した後は完全な空き地になっていたポツダム広場、 1990年以降、ベルリン市はこの地域を4つに分割し、それぞれを開発するデベロッパーに売却した。再開発中はヨーロッパ最大の工事現場だった。4つの地区のうち最大のものはダイムラー、ベンツが担当、2番目に広い地区はソニーが担当し、ヨーロッパ本社の建設した。ヘルムート、ヤーンによる印象的で、ガラスと鉄から出来た軽快な一枚岩のソニーセンターはベルリンにおける近代建築の最高峰とみなされており、スペイン人のガイドは必ずここを案内し、誇りを持って説明する、天井は時間と共にいろいろな色に変わっていく、建築家は日本の富士山をイメージにしたという、負け惜しみの強いスペイン観光客 demasiado....やりすぎなんてささやいていた女がいた(スペインの女は素直でないのが多い) ソニー広場の天井 ソニーセンターには戦前のベルリンを代表するホテルエスプラナーデに残されたカイザーザール(皇帝の間)を取り込むかたちで保存しており、レストランとして利用している。 Hackeの内庭 この周辺は20世紀の初頭、金持ちのユダヤ人達が沢山住んでおり、モダン派の建物が立ち並んでいた、そのひとつがハーケシェの8つの内庭、内庭のなかでもヨーロッパ一のスケールと言われ、その場所に店屋が有り、憩いの場所及び文化交流の場所でもあった、そのうちのひとつの内庭を抜けるとユダヤ教会に通じるようになっている、時代と共に忘れ去られたこの内庭が東西統合の後、新しく修復され、現在はベルリンの流行の場所のひとつになっている。 新ユダヤ教会 ハケシュ広場 有名な8つの内庭を持つ建物の周辺がこの広場で沢山のバー、カフェテリア、レストランが賑う、ナイトクラブも沢山有り、ベルリンの夜は長くサルサクラブも沢山有るとの事。 ハケシェ広場の地下鉄の駅 オペラ座(国立歌劇場) ベルリンには3つのオペラ座がある、そのうち2つはもと東ドイツに属し、ひとつは西ドイツ側にある、東西が分裂した後、西にはオペラ座がなくなってしまたので、ドイツオペラ座を作った、けれども、彼等はいつの日か東西が統一したときに、国立オペラ座が二つあってはまずいと考え、国立と言う名前をしいてつけなかった、その心の底にはいつかは東西が統一するという願いが込められていたのだと思う。 フリードリッヒ通りのショッピングセンター galerias lafayette フランス人建築家の設計 ドイツ議会 19世紀、第二ドイツ帝国の時代に作られた建物、その後、1933年に火災にあうが、その原因は未だに不明と言われているが、ナチスによるものという説もある。 第2次大戦後はちょうど、東と西の境に位置し、この建物は一切、公共施設として使われず、東西統合後、改めてドイツ議会として使用されるようになる、そのときに イギリスの建築家、ノーマン、フォスターの考案により、ガラスと鉄で作られた ドームがつけ加えられ、その部分は一般のツーリストが見学できることになっている。 1992年に新しくつけ加えられたドーム 下を覗けば会議の模様がみられる。 王立図書館 18世紀の建物で現在はフンボルト大学の建物として使われている。 燃された本の記念碑 1933年にナチスのよって、トマス,マン。ハイネ。カール、マルクスその他の著作が燃された、それを記念して、これも東西統合の1995年に作られたもので、 地下が図書館になっており、ガラスごしに見られる。(東に属していた) コンサート、ホール 19世紀初頭の建物でシンケルの作品、フルトベングラー、ホン、カラヤンで有名なベルリンヒルファーモニーの本拠で有る。(この建物も東に属していた) 交響楽及び室内楽音楽堂 1963年(交響楽)1968(室内楽)に建てられたもの、唯一、西側に属している建物、東西分裂後に西側にコンサートホールがなくなり、その為にこの建物が作られたわけだが、将来は東西統一を夢見て、すでに東側に国立音楽堂が有るために強いて国立と言う名前をつけなかった、この建物の前の通りがヘルベルト、ホン、カラヤンと言う名前が付いている。 チェックポイント、チァリー 東西分裂の時代の検問所があったところ 東西分裂の時代の城壁の残り、奥に見えるのはオーベルバン橋 ペルガモン博物館内 日本語のイヤホーンガイドがあります。 ピエタ ピエタとは厳密には十字架から下ろされたイエスの遺体を抱いて嘆く聖母マリア を意味するものだが、これは戦争及び独裁により子供を殺された母親の嘆きを象徴している、この像の彫刻家も実際、子供を戦争によって失った母親の一人である。 建物は19世紀のシンケルの作品によるものだが、昔は衛兵の詰め所として使われた たてものだが、今は広い空間の中に、ただひとつ象徴的にこの小さな彫刻がおかれている。 首相事務総局 カイザーウイルヘルム教会 虫歯と異名の付く教会、1895年皇帝ウイルヘルム2世の時代に神聖化された教会で、第二次大戦で破壊された部分をそのまま戦争の悲劇を象徴するために破壊された部分をそのまま残し、そのまわりにその後、1960年代に口紅と化粧品ケースとなずけた新しい建物のが二つ付け加えられている
ドイツの中でも最も豊かな街のひとつ、 バイエルン地方の州都、失業率0と言う話、BMWの街、SONYのヨーロッパの総本部、まずは賑やかな、旧市街のマリアン広場の周辺から始める。
前方に見えているのが、新市庁舎と言っても、20世紀初頭の建物。 新市庁舎の建物の仕掛け時計が11時と12時に動き出す、観光が10時45分に終わってので、それを見ることが出来た。 ミュンヘンで一番有名なビアホール、ヒットラーがよくそこで集会をしたといわれるホーフブロイハウスに向かう、中の雰囲気は去年の紀行をみてください。 なかは凄い騒音と熱気だから、ちょっと遠慮して、すぐそばの日本レストランに入ってお寿司にビールを飲んでほろ酔い加減で出てきたら、なんと何時も中で演奏している楽師たちが出てきて、店の前で演奏を始めた。 そのうち彼等が歩き出したので私もうしろについて行った、最後にオペラ座の前でもう一度演奏したら、前に止まっていたバスの中に消えていった。ドイツは何処の街も男性も女性もスリムな人ばかりみていたので、初めてビール腹のおじさん達をみかけた。 ビクトアーリェン市場、19世紀の穀物倉庫のあったところで、現在は沢山のバール、レストランと共に、食品を中心にいろいろな市が開かれ、沢山の人々で賑会う場所 旧市街からちょっと外に出る、ドイツ人は森が好きだ、イギリス庭園の話を聞いていたので、そちら向にかう、庭園に行き着くまでも大変だったけれど、いざ中に入ったら、行けども行けども森、最初に日本庭園に出会った、どうってことない感じで、そこに茶室があったけれど閉まっていた、又どんどん奥に進む、そろそろトイレにも行きたくなったので、何処かにビアホールがないかと聞いたけれど、ツーリストばかりでわからない、やっと犬の散歩をしている女性に出会い、場所を教えてもらった、そこに有名な中国の塔が有り、その名前のついた、ビアホールとレストランが有り、早速テラスに入り込み、ビールと食事を注文する。 ところでこの国は27%がプロテスタント、9%がカトリック、その他、イスラム、仏教を含めて、何らかの宗教に属している人は40%弱とのこと、何故カトリック及び、宗教に深く支配されている国に限り、街はあまり清潔でなく、犬の糞があちこちに見渡り、泥棒が多いのだろう、宗教と公徳心は一致しないようだ。 又街の中心部に戻る ブランド店が立ち並ぶマキシミリアン通り Bmwの本社とその博物館と同時に現代建築の傑作のひとつでもある。 サッカー球場 Allianz Arena,日が暮れると共にいろいろな色に変わる
ニュウルンベルグと言うと、まず頭に浮かぶのは、マキシミリアン、シェルが主役の映画
ニュウルンベルグ裁判です。10数年前に友達とシュツトガルドから鉄道で行き、旧市街が駅の目の前にあるのも知らず、タクシーを拾い乗って気がついたけれど、今更、降りるのもタクシードライバーに(ドイツはタクシーはすべてベンツでポリスの車はbmw)わるいので、そのまま街中を案内してもらった、ドライバーの特別サービスで、普段、観光では決して案内しない、飾り窓の女達のいる通りも見せてくれた。 実際は非常に中世的な美しい街。(ドイツの街は何処も美しいけれど)ドイツロマン派にとって非常に重要な意味を持つ街なのだ。ワグナーの楽劇、ニュウルンべルグのマイスタージンガーのモデルになる人物の生まれた所、画家、ヂューラーが生まれた場所でもある。 有名なニュウルングンベルグ裁判の行なわれた裁判所、戦争犯罪人として死刑の判決を受けた、9人の人々の写真をガイドさんが見せてくれた、その中の一人は服毒自殺をはかった、各独房にMPの見張りがついたにも拘わらず、いかにしてその毒薬を手にいれたのか? 高台から眺めたニュウルンベルグの街、数年前にアメリカ人の観光客を案内したとき 一人、車椅子の老人がいた、高台から街を眺めていた老人が泣きながら叫んだ、戦争の時、この自分がこの美しい街に爆弾を落としたのだと。。。ガイドさんは思わずもらい泣きをしてしまった、戦争の悲劇、軍人として、上から命令されれば、自分の義務に従わなければならないのだ。。。そのときガイドは何処にいたかと言うと、自分の家族はユダヤ人ではないけれど、仕事を求めて、メキシコにいたと言う話。 これから城壁ないに入っていく。。 デユーラーの家、正面 突き当たりの建物はレストランで去年、夕食をしたところ
去年、なんの知識もなく、ポンとこの街にバスから降された時、この街の重厚さに強烈なインパクトを受けた。マイセンから25キロ、ザクセン選帝候の宮廷都市として12世紀末から栄えた街、軍事的には特に重要性のないこの美しい街が第二次大戦の末期、1945年の2月13日から14日かけて、イギリスとアメリカ軍が無差別攻撃を行い町の85%を破壊する、ソ連軍の進撃を空から応援すると言う名目で、戦略的に意味のない空襲であり、国際法にも違反している、ナチスの空襲を受けていたイギリス国内でも批判の声が起こった。終戦後はロシア側の支配下に入り、1989年、東西統合までは東に属していた。私の見た建物は戦後及び東西統合の後に復元したものだが、黒ずんで、苔むした、青銅の屋根を持つツインガーー宮殿はまさに昔そのもの姿を残している。現在は建物の殆どがオペラ座、博物館、美術館として使われている、あれだけ爆撃され、ほぼ廃墟となった街を昔さながらの姿でここまでやると言うことは、ドイツ国民に深く敬服する。
オペラ座、手前はザクセン王ヨハンの騎馬像 ツインガー宮殿内の磁器収集室のマイセンの磁器 歴代君主馬上行進図、マイセン製磁器のモザイク、ザクセン国を支配したべツテイン家出の君主連が描かれている |
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