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スペイン政府公認 在スペイン日本人通訳協会
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ヘレスの国鉄の駅、これが本当に駅なのかな?と言う感じだ。日本の街道筋にもこんなアラビアンナイト風の建物が時々あるが(もっと色がケバケバしいか)アンダルシアの駅もこういうレトロ調がだんだん少なくなっている.SEVILLAもCORDOBAも超近代的建物になってしまった。MALAGAもそうなるだろう。

ヘレスとセビージャの間で初めて飲食類の車内販売を見た。トルコからインドに旅した時の汽車の中では売り子が押し売り同然に夜中までやってきて閉口したが全く来ないというのもさびしい話でスペインでは今まで私は見なかった。スペイン風サンドウィチ(BOCADILLOと呼ぶフランスパンにハムとかスペイン風玉子焼きなどをはさんだ誰にでもできる簡易食)ポテトチップ、冷たい飲み物などだが誰一人として購入する人はいなかった。可哀想になったがパサパサのパンをかじる気にはならなかった。せめて暖かいコーヒーでもあれば買ったのだが ...ANDALUCIA,EXTREMADURA人は商売っ気がなくていかん。彼らが大挙して南米に渡ったわけだから流通経済が育たないはずだ。若しこれが地中海貿易で鍛えられたカタラン人(バルセロナを中心とした地方の独特の、言葉も違う文化圏の民族)だったら随分違っていただろう。しかしカタラン人の移住は禁止されてしまった。怠け者と烙印を押されたアンダルシア人だがその底抜けの明るさはアイデンティティーであり文化でもある。通常われわれ日本人を含めて外国人がスペイン並びにスペイン人についてのイメージというとアンダルシア並びにアンダルシア人のことだと思う。これが観光資源の一つのelemento(要素)となるのだから世の中どう転ぶかわからんもんだ。人生を楽しむと言うことでは最も秀でた民族ではなかろうか  GORDO
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もう三年ほど前になるが、福岡のお世話のなった方がいてriojaの82年物のグラン リザーブを持って訪問した。本人はまだ帰宅してなく奥さんが台所のテーブルにそのお土産を置いたようだった。その内ご主人が帰宅され、台所の方から声が聞こえてきた。「何ね、赤ワインね、赤ワインはすかんちゃんね、白ワインのほうがよかあ」   本人は私が持ってきたものとは気がつかなかったと思うし、客間にいた私に聞こえたとは思わなかったのだろう。しかしガッカリである。これこそ猫に小判、豚に真珠、ユダヤ人にロブスター、インド人に神戸肉、イスラムにハモン イベリコ(最高の生ハム)である。よく誤解されることだが年代物のワインと言うと古ければ古いほど価値が出ると思っている方が多い。一概には言えないが大体雨の少なかった年のワインが出来が良い。82年のriojaは世紀のワインと呼ばれたものである。貯蔵の過程で四段階に分けられる。樽に寝かしてないのがjoven(若い)、一年未満がcrianza,一年から三年寝かしたのがreserva,三年以上寝かせたのがgran reservaである。もちろん樽(オーク材)の質によっても出来が違ってくる。微妙な環境で味が違ってくる底の深い飲み物である。ここで言うワインとは赤ワインのことであって白ワインは比較的簡単にできることもあり、また手を加えてもさして味が余り変わらないこともあって料理用は別としてあまり需要はない。スペインにはもう一箇所最高級ワインの産地ribera de dueroと言う原産地ものがあるのだが、こちらの方は82年物は最高級ランクではなく上から二番目である。ここが生き物と呼ばれるワインの面白いところだ。スペインのブドウ畑は概して棚を造らない。気候や土壌に似合った栽培法であろう。収穫の後は株を残してすべて切り取ってしまう。収穫のほうは一日中、中腰でやるわけだから大変だ。今年は夏の前半強烈に暑かったこともありvendimia(収穫)は十日ほど早く始まっている。一杯のrioja,これぞ至福のひと時である   ゴルド

今年はザビエル生誕500年である。徳川時代以前の西洋人では最も良く知られた人だと思う。彼は1506年、写真のザビエル城で生まれている。つまりかなり裕福な家系である。後にロヨラと共にカトリック内の改革運動を進めイエズス会を創設する。そして特にアジア地区の布教のため1541年インドの当時はポルトガル領だったGoaに到着、二年ほど布教活動をやっているがその前にもモザンビークでも足跡を残している。その後インドネシア、マレーなどを宣教しているときに日本人アンジロウと出会い、これが日本に向かうきっかけとなったようだ。1549年(以後良く広まるキリスト教、と中学校時代覚えさせられた)鹿児島に到着、鹿児島、平戸などを布教し京都に向かうのだが、京都は応仁の乱後の荒廃でとても布教どころじゃなく仕方なく山口を中心に宣教することになる。二年と二ヶ月の在日ではあったが日本史に強烈な足跡を残している。彼が送った書簡に日本人の資質のすばらしさを激賛した項がある。当時の日本の庶民はザビエルがそれまで訪れたインド、マレーなどと全く変わらない極貧状態だった。結果的には500年ほど前にすでに先を読んでいたと言うことになる彼もまた凡人ではなかった。その書簡で面白いのは男色が公然と行われていたことだ。男色は文明が高度化されたときの副産物と言われる。戦国時代初期の日本、活気のあった時代のようだ。しかしザビエル、女色( こんな言葉あるのかなあ )については触れてない。知りたいところである。  
お城の前にあるBarはGoaと言う名前だった。これが山口とか平戸とかだったらもっと親近感が出ると思うのだが、恋焦がれる恋人にソッポ向かれた気分である。お城内には唯一、布教活動の場面の掛け軸がいくつかあったが他に日本に関してのものはなかったし、売店にも彼の日本での軌跡についての文献もなかった。ちょっと寂しいな    ゴルド

guadalajara県最大のお城が残っている。まるで中世を舞台にした映画に直接使えそうだ。チャールトン、ヘストンあたりが甲冑姿で馬にまたがり、前方の大軍に対し少数の味方に叱咤している姿が絵になる風景である。歴史の方は古くイベリア半島の先住民族イベロ族がMediolumと呼んでいた。アラブ統治下ではtarikと呼んでいたようである。1129年アラゴンのアルフォン一世によってアラブから失地回復された。この王様はbatalladorと言うあだ名のある人で、武闘派と訳したらぴったりする好戦的人だったようだ。スペインの王様には良くあだ名がつけられるが、フェリッペ美男王、アルフォンソ賢王、ペドロ残忍王などはまだいいが中には露骨なのもある。スペイン建国の母といえるイサベル女王は兄のエンリケ四世の死後即に自ら王位を宣言するのだがそのエンリケ四世のあだ名が不能王と呼んでいる。カタカナの方がスペイン的直なニュアンスが伝わりやすい。エンリケ インポ王である。とにかくスペイン語の表現は露骨なのが多い。ときにこのモリナ デ アラゴンその名前どうり以前はアラゴン領だった。castillaのサンチョ四世とaragonのマドリッドの大きな通りの名前にもなっているmaria de molinaとの結婚以来(日本で言う結納金みたいなもの)castilla領になり今に及んでいる。きれいな街だ。マドリッドから約200キロ、幹線から外れているだけに良い雰囲気を保っている. ゴルド   

マドリッドはイベリア半島のほぼど真ん中にある。メディアが発達した現代は別として、つい最近まではヨーロッパの中でもセンス的なもので最も遅れていた首都と言われていた。外からの文化が入りやすかった港町バルセロナと内陸都市マドリッドではその差を肌身ではっきり感じたものである。これは良し悪しの問題ではない。どちらかと言うと素朴なマドリッドの方がクールなバルセロナより好きだった。19世紀末に興ったmodernismo(フランスで言うところのアールヌーボー)は保守的なマドリッドまではなかなか浸透せず絵画の分野でもそうだが建築の方も古典的なものの継承となる。マドリッドの風格ある建物と言うとその多くはネオクラシックである。そういった建物に目が慣れてしまった時に見る写真の建物はある種の新鮮な驚き与えてくれる。ガウディ自身の作品ではない。弟子であるjose grasses rieraの作品だ。ここで言う弟子とはガウディに傾倒した人と言う意味で直接学んだようではないようだ。いずれにしても充分ガウディを彷彿させるものがある。fernando6世通りとpelayo通りの交わるところにある。Longoria宮殿と呼んでいる。当時の新興ブルジョアで銀行家だったjavier gonzalez longoriaが1902に作らせている。ともかくマドリッドの建築物の中にあって異色である.  ゴルド



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