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スペイン政府公認 在スペイン日本人通訳協会
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フランクフルト

まずはフランクフルトから始めます。正直言って、大都会の東京から逃れてスペインに来た私にとって、都会には興味がないのですが、小都市に行くにはやはり、大都市を通過せざる終えなく、フランクフルトの街から始めます。

ホテルのテラスから見たフランクフルトの街、金融の街などに一切興味なし。



ホテルから出て歩いて旧市街に向かう、橋から見た、新市街と旧市街 河はマイン河



橋を渡り旧市街のレーマー広場に出る。ここに見える建物は旧市庁舎





旧市庁舎の反対側の建物





旧市庁舎の裏側



広場で出会った子供達



旧市庁舎の脇の旧ニコライ教会



フランクフルトと言ったら、ソーセージとゲーテが生まれたところで有名ですが、今回はソーセージは食べましたが、ゲーテの家をみわすれました。去年のワイマールのゲーテの家で勘弁、実際はワイマールの街の方をゲーテは愛したようです。私も同感


ヴュルツブルグ

午前中のフランクフルトの観光を終えて、南東120キロ、マイン川沿いの都市、バイエルン州の23の上級中心都市のひとつで人口13万5千強の街、ミュンヘン、ニュウルンベルグ,アウスブルグについで同州4番目に大きいな都市。ドイツ全体では俄然プロテスタントが多い訳ですが、ここは8世紀に司教座がおかれ、その後この街でも宗教改革が基盤を築きつつありましたが対抗改革により著しく抑圧されこの街から追放され、その後スエーデン軍が占領した時代プロテスタントが足掛かりをつける。19世紀初頭からバイエルン選帝侯により両派が平等に扱われる。、バスは有名な世界遺産になった、レジデンスの前で止る。レジデンスすなわち中世の司教の宮殿であったところ。




聖キリアン聖堂の脇を抜けて、旧市街に入る



ドイツは何処の街も第2次大戦でほぼ完全に破壊されているにも拘わらず、戦後、破壊される以前のままのスタイルで街を復興させている。下の写真は第2次大戦で破壊された街の姿です。



旧マイン橋



旧マイン橋から眺めるマリエンブルグ要塞の建物



ところで、このヴュルツブルグはロマンチック街道の起点にあたるところ、でも我々は起点だけで、フランクフルトに戻りました。

翌日、フランクフルトを後にケルンに向かおう途中、ライン河くだりをすべく、Bacharachの村で下車、みんなの時間厳守のお陰で、船に乗るまでの間、この村を見学する事ができました。私はこんな小さな村が大好き。

















村の子供達、スペインの子供達と違うのは、カメラを向けたら、スペインの子供達は自分を撮れ撮れとよってくるのに、ドイツの子供はカメラを向けると顔を隠すか、逃げていく子供達が多く、国民性の違いを感じました。







いよいよライン河くだり、ドイツ人にとっての心の故郷となる大河が、父なるライン、母なるドナウと呼ばれるドナウ河とは対照的に語られる。全長1320キロメートル











反対側の土手に569の数字が見えるすなわちライン河の569キロのところ標識である。



ライン河の両サイドは可愛らしい童話のような家が立ち並ぶ





そろそろ到着のようだ、約1時間の旅。



ケルン

寺院で有名なケルンだけれど、寺院を中心にごたごたと安っぽい店が立ち並び、
歩いている連中も安っぽく、まるでマドリッドのソル広場を中心とする品のない雰囲気で一言、言って嫌い。



ハーメリン

グリム童話で有名な街、皆さん、笛吹き男の話、覚えていますか?この街の人達が
ねずみ退治をこの男にたのむのですが、退治してあげたのに、約束の謝礼金を街の人が払ってくれなかったことに、怒ったこの男が仕返しに130人の街の子供達を連れて姿を消してしまう話

ハーメリンの笛吹き男の模様の前に立つこの11歳の少年、旅の仲間の一人、実に聡明な少年でいろいろ助けてもらった。




笛吹き男(ネズミ捕り男)の家



地面を見るとこんな模様が良く見える、この足跡をたどると目的の家に行ける、
今は足跡だけれど、以前はねずみの形をした模様のようだった。





笛吹き男の噴水









結婚式典館の仕掛け時計の人形が毎日13時5分に動き始め、笛吹き男の物語の模様を見せてくれる。





ハーメリンの街のシンボルねずみの像が橋の上に見えた



ハーメリンの昼食をしたレストラン



昼食後バスで約2時間後金融の街、河港の街、ハンバーガーの発祥地ハンブルグに到着、街に着いた時は雨だった、バスの車窓から撮ったハンブルグの中央駅、駅はちょっとすすけた感じだけれど、街全体はやはり金融の街、立派な建物が立ち並んでいた、大昔、まだ私が若かった頃、私の意志に反して銀行に入れられた、入行した日から絶対に辞めてやろうと覚悟した。でも周りはほんとに良い人ばかりだった。ハンブルグ支店の数年の勤務で戻って来た上司が折りたたみ式のしゃれた鋏をくれた。



足も長いのだけれど、皆物凄く大股で歩いている、私の3倍以上の幅。



これは海ではありません河です。エルベ河です、バルテイック海に注ぎ込むのです。
ドイツはどの都市も必ず大きな河が有り緑が豊かです。ここハンブルグはメンデルスゾーンとブラームスの生地、でもブラームスは生前、ハンブルグ市には冷遇を受けたようで、その後、市がお詫びにブラームスの像を作ったようですが、時間切れで写真が撮れなかった。



緑の屋根は市役所の建物





街のど真ん中に湖がある、実際はエルベ河の一部を堰き止めて作ったもの。











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緑を求めて、スペインとフランスの間に挟まり、ピレネーの東部に位置する、468キロ平方の小さな国アンドラに行く、マドリッドを朝の7時に出たのだけれど、如何でもいいようなカタル二ァの村などに立ち寄って4時間以上も時間取って、夜の8時半にくたくたになってアンドラのホテルに着いた。ホテルはスキー場のすぐ近く、部屋のバルコニーからリフトが見えるような場所で広くて立派なホテルで広いロビーには由緒有る昔の車が2台、展示されていた、これは後で写真をのせますが、私は夕食の後はただひたすらに休むのみ、でも相変わらず元気なスペインのおばさん達は夕食後は踊っていたみたい。デブのおばさん達、凄い体力、でも何故痩せないのだろう。アンドラ第1日目は首府のアンドラ、ラ、べジャにて約5時間のフリータイム。







このガラス張りの近代的な建物はスパです。



スパの周辺の景色





とても親切な交通巡査







アンドラ議会の建物、余り小さいので、なにかの間違いじゃないかと思い気や
間違いではなかった。



アンドラ議会の建物の近くの教会



アンドラ、デ、べジャの展望台に向う途中



展望台から眺めるアンドラ、デ、ラ。べジャの街。




メリテルの神殿
アンドラの教会は殆どがロマネスクスタイルですが、これだけは例外でカタランの建築家、リカルド、ボフィルの作品で1976年に落成式が行われ。その後1994年に修復された、超近代的な建物で、素晴らしい空間と光、ビックリしたのは、教会に入る手間に広々としたトイレも有り、教会を出たところにはエレベーターまでついていました。







Col de la Botella.ボトルの天辺とでも訳すのでしょうか? 海抜 2069メートルからの谷底の眺めは圧巻。





パルの村、なんでスペイン人というのは教会を見るのがすきなのか?似たような教会を沢山見せてくれるので、うんざり、私は最初から中に入らず、外の景色を楽しむ。



Engolastersの湖、湖を犬かきしている犬、時々、湖に浸かりながら、最初から最後まで、我々の後について来た。



最後の休憩所でワンちゃんがアイスクリームを請求。



休憩所の近くでは、数匹のヤギも通る、ヤギ君達は自分方からはよってこない。



オルデイーの村、なにかお祝い事があったようで人びとが集まっていた。







ホテルのロビーに展示されていた、こんな車は如何?



上から眺めたパルの村



下から眺めたパルの村



アンドラ内を流れる河の水は何処もとても勢いが良い。

今年はザビエル生誕500年である。徳川時代以前の西洋人では最も良く知られた人だと思う。彼は1506年、写真のザビエル城で生まれている。つまりかなり裕福な家系である。後にロヨラと共にカトリック内の改革運動を進めイエズス会を創設する。そして特にアジア地区の布教のため1541年インドの当時はポルトガル領だったGoaに到着、二年ほど布教活動をやっているがその前にもモザンビークでも足跡を残している。その後インドネシア、マレーなどを宣教しているときに日本人アンジロウと出会い、これが日本に向かうきっかけとなったようだ。1549年(以後良く広まるキリスト教、と中学校時代覚えさせられた)鹿児島に到着、鹿児島、平戸などを布教し京都に向かうのだが、京都は応仁の乱後の荒廃でとても布教どころじゃなく仕方なく山口を中心に宣教することになる。二年と二ヶ月の在日ではあったが日本史に強烈な足跡を残している。彼が送った書簡に日本人の資質のすばらしさを激賛した項がある。当時の日本の庶民はザビエルがそれまで訪れたインド、マレーなどと全く変わらない極貧状態だった。結果的には500年ほど前にすでに先を読んでいたと言うことになる彼もまた凡人ではなかった。その書簡で面白いのは男色が公然と行われていたことだ。男色は文明が高度化されたときの副産物と言われる。戦国時代初期の日本、活気のあった時代のようだ。しかしザビエル、女色( こんな言葉あるのかなあ )については触れてない。知りたいところである。  
お城の前にあるBarはGoaと言う名前だった。これが山口とか平戸とかだったらもっと親近感が出ると思うのだが、恋焦がれる恋人にソッポ向かれた気分である。お城内には唯一、布教活動の場面の掛け軸がいくつかあったが他に日本に関してのものはなかったし、売店にも彼の日本での軌跡についての文献もなかった。ちょっと寂しいな    ゴルド

暑い、これも地球温暖化の影響かな。今年の夏は例年より2.6度温度が高いそうだ。34年の在西で一番暑暑く思える。年のせいかもしれんが息苦しい。暑さのために亡くなる人々のほとんどが老人だから呼吸器官と関係しているのは間違いないようだ。昨年[2005年]スペインは120年来の大干ばつだった。冬に少しは降ったもののダムの貯水率は昨年よりさらに下がっている。地中海側のjucar,segura水系は各16パーセント、13パーセントと情けない数字だ。これで何百万人とやってくるバケーション客の飲料水をどうやってまかなうのだろうと思ったが、人間の生活用水というのは微々たるものだそうで問題は、農業用水、工業用水、テーマパーク、ゴルフ場等だそうだ。特に農業用水は死活問題である。太陽が豊富な地中海側は野菜と果物の欧州向けの巨大工場と言える。じゃあこの水不足どうするか、今日8月4日のEl pais紙によると淡水化プラントがまた新しく稼動すると言う。これでなんと66パーセントまかなえると言うから相当な規模だ。しかし、これには大変な電力が必要となる。スペインも電力の主力は火力発電だ。石油の高騰でこれまた頭の痛い問題だ。すでに風力発電はドイツについで世界二位の発電量だ。と言っても全体の発電量の5パーセントにもならない。この有り余る太陽光線があるのだから太陽光発電が有効だと思うのだが、発電コストは石油が1バーレル100ドルを超えないと経済的採算が取れないそうだ。しかし100ドルを超えるとなるとものすごいインフレになるだろう。どっちを取るか、諸物価の高騰で生活が苦しくなるのを取るか、あるいはこれで弾みをつけて太陽光発電が爆発的に普及し市場原理が作用して発電機器そのものが安くなるか、原油1バーレル100ドルのラインの攻防戦、面白くなると言ったら不謹慎かな。スペインへのバカンス客は今年も記録更新するようだ。リゾート地で聞こえる言葉は、ドイツ語、英語、フランス語の順かな。最近は明らかにスラブ系と思われる顔と言葉の連中も見受けるようになった。東ヨーロッパもゆっくりではあるがニューリッチも出ているようだ。
P.S後でわかったことだが、日本の家という家に太陽光発電装置を取り付けても電力消費全体の2%しかならないそうだ。なーんか絶望的になってきた。  ゴルド


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